2022年の4月にかたりすとで校内研究に関するインタビューをさせていただいた新井さんに再び、インタビュー。以前に、話してくださった校内研究での葛藤に共感することが多く、内容をありありと覚えている。
そんな新井さんからの、こちらのメッセージ↓
「ご無沙汰です!アレから、いろいろいろいろいろいろいろあって、でも、まだ校内研究と向き合っております笑」
めちゃくちゃいろいろあるじゃないですか笑
こんなメッセージが送られてきたら、絶対話を聴きたくなってしまうじゃないですか笑
というメッセージから2回目のインタビューが実現しました。
3つの領域がつながる
今回、新井さんが話してくださった内容は、授業実践、学級経営、校内研究の3つにわたる領域。
話の中で印象的だったキーワードやトピックを焦点化すると、
① 何をするかよりもまずは、自分がどんな人であるかを考える
② 自分の中の「こうあるべき」がなくなった時に、大人も子ども学びのあり方は同じだと捉えるようになった
③ 授業実践も学級経営も研究も全て繋がっていることがオモロっ!これが今の自然な形
授業実践、学級経営、校内研究ってどれひとつとっても語るのはヘビーな内容である。
しかし、今回の新井さんの話は、一つひとつに焦点を当てたものではなく、それらのつながりが生み出されたプロセスや全体像を話すことに主眼が置かれた。
一つひとつの実践よりも全体を整理しながらこれまでの過程を話してくださったので、新井さん自身の変容を知りたい僕にとってとても贅沢な時間だった。
しかも、2年前に新井さんの葛藤を聴いている。それが2人の中にベースにあり、現在と陸続きに繋がっているから味わい深いお話が聞けた。
インタビュー内容
インタビューの内容にももう少し触れておきたい。
① 何をするかよりもまずは、自分がどんな人であるかを考える に関して
新井さんは、これまでの学校でも校内研究に携わられてきた。熱意ある方で、多くの先生を巻き込みながら進められてきたが、校内での研究への温度差が生じた時もあった。これは、日本中どの学校でも起こっていることだ。様々なアプローチで取り組み、前進するも、ご自身の感覚としては、しっくりはこられていなかった。
だから、自治体も変わった異動先では、これまでの経験を全動員し、失敗しないようにフルスイングでいこうと取り組まれた。これまでの反省もあり、いきなり「これをやりたい!」のDOではなく、まずは自分が何者なのか、つまりBEを周囲の方に知ってもらうところから始められた。
どの組織でも「誰が」言うかという組織内での信用が大事になるが、信用を生み出すには自分を他者に知ってもらえているか、自分から他者を知ろうとしているかの2点だと思う。ここを大切にできる人は、学校全体に関わる仕事を圧倒的に進めやすい。
② 自分の中の「こうあるべき」がなくなった時に、大人も子ども学びのあり方は同じだと捉えるようになった に関して
「べき」がなくなる=自分自身の囚われからの解放だと思うのだが、それは突然のタイミングで訪れる。学校観、授業観、生徒観、保護者観などいわゆる経験から出来上がってくる「観」の変容だ。
新井さんの場合、教室の楽器でDJをやり始めた生徒を見た瞬間に訪れた。もっと自由でいい。もっと一人ひとりが存在を否定されない形で多様な学びを享受していい。
そして、面白いなと思ったのは、この授業「観」が腹落ちした瞬間に、他の領域、つまり校内研究「観」や学級経営「観」にも変容が起きたことだ。それは1つのエピソードからも分かる。ある時、後輩の先生が、研究授業を断る時があった。でも、その先生は年度終わりの自分の学びの発表の時には、様々な準備をして日々の取り組みを生き生きと語られた。これは、新井さんから見ると、大人も子どももそれぞれに合う学びのタイミングや形があることを実感した出来事であった。今、やりたいわけじゃないけど、最後にはしっかりやってきたことを伝えたい後輩の先生。一斉授業や自由進度に合わずに、もっと自分の学びのあり方を模索する生徒。大人も子どもも一緒。
新井さんの「観」が繋がっていった証であった。
③ 授業実践も学級経営も研究も全て繋がっていることがオモロっ!これが今の自然な形 に関して
②にもつながる話ではあるが、自分の中の経験と思索が積み重なり新たな「観」が立ち現れたり、これまでの「観」が実感を伴って腹落ちしたりすると、物事を見る眼差しが統合されていく。だから、授業をやっているときに、研究のことを感じる瞬間が自然と立ち現れたり、生徒にかける言葉が教員間でかける言葉と重なったりもする。全てがつながっているのだ。
オモロっ!(新井さんっぽく笑)
このフェーズでの在り方は、真に自然体なのだと思う。
ちょっと意地悪に「新井先生の実践のように周りの先生がやらないことを生徒が受け入れていると他の先生方の授業スタイルに対して生徒が問題行動を起こすことはないんですか?」と聞いてみた。新井さんは、ご自身の人間力でなんとかなっていると答えられた。そりゃそうだ。大人にも子どもにも自分の「観」を自然に感じてもらっている新井さんの在り方は人間力が深い?大きい?こととつながる。
要は、新井さんの行動にも言葉にも自然と一貫したものがあるのだ。
そして、「べき」がなくなった新井さんの自然体は、他者を圧倒的に受容する。みんなそこが心地いいのだ。子どもも大人も、言行一致な自然体の新井さんを信用するだろう。
インタビューしてる側の気づき
インタビューをしていて、面白かったのは約1時間半の時間、僕から問いかけたのは数回だったこと。自分でもびっくりした。果たしてこれは、インタビューなのか?笑
これまでのインタビューと違った点は、1回目の話をベースに僕の解釈を入れて質問したこと。
(例)以前は自分から動いて引っ張っていく、巻き込んでいくという状況だったの思うのですが、今の自然な状態の考え方を同僚に広めたいとは思わないのですか?広めたら、より校内研究も進む気もします。
当時を知っているからこそ、インタビュワーの視点で比較して質問できるのは、質問の幅が広がった。
また、1回目のインタビューの時は研究も兼ねて、校内研究でのTIPSを知るという目的があった。だから質問紙を用意し、明確にTIPSを引き出したいと思っていた。
しかし、今回のインタビューの根底にあるのは、その人の存在に再び出会うことであり、その人をもっと知ること。
だから、質問紙ではなく、この瞬間に立ち現れてくるものを感じることに重点を置きたかった。
それでよかった。
瞬間を愉しんでいると、話の中身以外も受容できる。例えば言葉の質感。1回目よりも軽やかで、かつ、その中にほどよい重さがあった。話してくださる内容だけでなく、2年の時を経た新井さんの言葉の質感の変化を感じることができたのも、2回続けることのよさである。
これは、目的が明確な1回目のインタビューとの違いだ。
同じ人に2回目のインタビューをすること。これは心底楽しい。
今の僕は、同じ時間を過ごす方たち自身に興味を持ち続けることを大切にしたい。それが楽しいから。
何度も同じ人にインタビューを重ねることで、お互いの信頼が深まっていき、そこでは普段話さないことも物語れるという絶対的に安心できるコンフォートゾーンをもつことができる。そういった意味でも必要不可欠な時間になった。
インタビューとケアの話
最後に、嬉しかったことは、終わった後に、新井さんから「勇気と愛をもらいました。」と言っていただけたこと。僕は何もしていない。正直、これはインタビューなのか?と思ったほどだ。ただ描き綴ったに近い笑(これが、心地よかった。)
取り組んで間もないことを、新井さんご自身が物語ることで、副産物として、ご自身の生へのケアが行われたのだと思う。
ここでいう「生」とは、ライフヒストリーを研究している社会学者の桜井厚が「経験としての生」という、当事者本人によるイメージ、感覚、感情、思想、意味などから成立する生のことを考えている。経験は、記憶に刻まれ、思い起こされることで新たな経験を生きることにもなる。この「経験としての生」を他者に語ることによって、新たな意味や解釈を自分の力で獲得し、新しい生が形作られていく。これは、僕はセルフケアだと思う。
少なくとも僕はこのケアを生み出すことを目標にしてインタビューをしているわけではなかった。
新井さんの今を知りたかっただけなのだ。
今回、豊かな時間になったのは、自分の生を味わい、目の前の問題に真摯に対峙して最善の一手を打ってきた新井さんが物語った結果である。
僕は、聴いて描いたにすぎない。
これは、続けたい。もし、話してもいいと言う方がいたら、ぜひお声がけいただけると嬉しい。
後日追記
この記事を新井さんに読んでもらい、このインタビューではないこの感じなんなんだろうという話になりました。セルフケアはしっくりだそうです。言葉で感覚共有できたのは嬉しい☺️
ただインタビューでも、コーチングでも、カウンセリングでもない。
この豊かな感じは...
・日常の延長みたいだった
・でも何となく集まるではない
・強いていうなら、校庭でキャッチボールしてる感じ
・受け止めてもらえてる感があった
・誘って始まる感じは、「磯野、野球しようぜ」感
・映画見終わった後の感想をお互いに共有しあってる感
などなど
この感じにピタッとくる名前を見つけたいねということで、2人の話は一旦終わりです。
これが直接会ったことのない2人の間で交わされているっていうのがまたよかったなぁ。
インタビュワー/グラフィック/編集
石橋智晴